小松の軍艦マーチ

3/31(火)
「意識の流れ」セミナーに参加した後、京都駅から金沢に向かう「サンダーバード」に乗り込んだ。今夕、金沢の印刷業者と会う約束がある。
かつては関西の印刷・製本業は、品質も値段も他を圧していた。それが、ここ十年、出版事業がみんな関東へと移ってしまい、それに伴い印刷・製本業の立場も逆転してしまった。今や関西の印刷・製本業者に仕事を頼むと、東京の3割増し、下手をすれば4割増しになることもある。中でも紙代と製本費が、とても太刀打ちできる状態ではなくなった。関西の落ち込みが叫ばれる中、なんとか関西の業者を使いたいのだが、経済原則に従えば、どうしても東京に仕事を頼まざるを得ない。「地方の時代」などということは出版については、ありえないことなのだろうか。
そんな折、金沢の印刷業者さんと知り合った。印刷ばかりか、ホームページの製作、CD・DVDのプレスと手広く仕事をされている会社で、僕の愚痴のような話を聞くや、「一度、見積もらしてほしい、頑張ってみる」ということになった。では……ということで、北陸での書店営業を兼ねて金沢へ向かうようになった次第だ。

京都を出発して30分もすると、車窓に日本海が見え隠れするようになり、サンダーバードは、春休みが始まったためか、満員の乗客を乗せて、それでも敦賀、福井と順調に進んでいく。福井でようやく車内もすきはじめ、アナウンスも、混雑の中、自由席での車内販売で立ち客に迷惑をかけたことを詫びる放送を流していた。
指定席にも空席が目立ちだし、車内に静けさが戻ってきた。すると、今度はキーンという金属音が耳につくようになってくる。決して耳鳴り等の類ではなく、列車の進行に伴って起こる物理的な音だ。

この音だけならどうということもなかったのだが、まるで遠くの音が風に運ばれてくるような感じで、金属音に乗って「軍艦マーチ」の旋律が流れてくる。最初は、聞こえるか聞こえないかわからない程度の小さな響きだったが、その小さな音に耳を澄ませると、次第にハッキリと響き始め、その旋律を追いかけるうち、いつしか頭の中で吹奏楽がはじまっていた。金属音は物理的な音だが、「軍艦マーチ」は、ほかならぬ私の頭の中で演奏されている。この現象を体験するのは久しぶりのことだ。

一度は、もう二十年にもなるだろうか。加賀温泉でのセミナーのときだ。私は、その頃はまだエルの社員で、セミナーの設営をするべく、同僚の運転する車で加賀温泉を目指していた。それが小松の飛行場近くまで来たとき、今日と同じような感じで、まるで風に運ばれるように「軍艦マーチ」の旋律が流れてきた。頭の中で響いてるのはすぐわかった。それが面白くてメロディを追いかけるうち、一つ一つの音が具体化し、頭の中で吹奏楽が始まり、いつしか旋律は「君が代行進曲」に移行していった。運転する同僚に、「頭の中で軍艦マーチが聞こえる」と言った。彼はただ黙って運転を続けていた。

1990年東宝ラインアップ二度目はエルを辞め、関西へ帰ってきてからのことだ。
新しく勤めた「かんぽう」という会社内に、新しく出版事業を起こした。その仕事の中に「天国へのマーチ」という作品があった。今津中学ブラスバンド部を率い、全国大会連続十何連勝かの優勝を勝ち取った、得津さんという中学校教師を描いた作品だ。当時、兵庫県の今津は「文化果つるところ」と悪口を叩かれるような場末の地だった。今津中学、またしかり。そんな今津中学校を、ブラスバンド部を鍛えることで、日本中が注目する中学校に変えた人物、それが得津さんだった。
一時は、脚本は菊島隆三さん、主演は西田敏行さんで、東宝で映画化の話まで起こった。それが菊島さんがファーストシーンだけを書いただけで、病床に倒れるという事態が起こり、それがきっかけで最大のスポンサー兵庫県がおりると言い出した。結果、企画はお蔵入り、「天国へのマーチ」は幻の作品となってしまった。

それが4年前、当時、この映画の企画を担当した電通マンが、せめて「本」として残しておきたいと僕のところへやってきた。すでに彼は電通から独立して音楽プロダクションを運営していた。

本となった「天国へのマーチ」「本」は、今津中学やブラスバンド部OBたちの協力でめでたく完成し、完成記念の演奏会が西宮市で開かれることになった。その最大の呼び物が「軍艦マーチ」の演奏だった。
得津さんは、なにしろ「軍艦マーチ」が好きだった。阪神が優勝したといっては「軍艦マーチ」を子供たちに演奏させ、練習がうまくいかないといっては「軍艦マーチ」をやる。何かにつけて「軍艦マーチ」をぶちかます、そんな人だったという。彼が亡くなったときも、教え子たちは、教育委員会の反対を押し切り、雨の中、「軍艦マーチ」を吹きまくり、彼を送り出したという。
今は中年となった今津中学校ブラスバンドOBが、出版記念演奏会で、「軍艦マーチ」を演奏するという。
そのための最後の練習が、今津中学体育館で行われた。そのとき僕も呼ばれ、今津中学体育館に響き渡る演奏を聴くこととなった。そこには演奏会場では味わえない迫力があった。
しかし、体育館に堂々と響き渡る「軍艦マーチ」とは別に、少し憂いを帯びたような、もう一つの「軍艦マーチ」が、僕の頭の中で響いていた。

「サンダーバード」車内で、そんなことを思い出しながら、頭の中に響く「軍艦マーチ」の旋律を追いかけていた。なぜ「第九」じゃなく「未完成」でもなく、「軍艦マーチ」なんだろう。シューベルトの「未完成交響曲」なら人に話すときにも「絵」になるのに……。
それに「原因」は? 過去世、それとも頭の病気? いくら考えても答えは出ない。「まっ、いいか」と、いつものように思考を中断する。
心の学びをするようになって「どうしよう?」という口癖が、いつしか「まっ、いいか!」に変わった。
この「まっ、いいか!」が、万能薬のように、実によく効く。このときも、「まっ、いいか!」の思いとともに、「軍艦マーチ」も「君が代行進曲」も消えてしまい、「まもなく金沢に到着します」のアナウンスだけが車内に流れていた。 

| 出張紀行 | 20:51 | comments(0) | trackbacks(0) |
伊都国へ来た!
今朝10:10分、博多駅に着く。改札を出ると、中村さんが待ってくれていた。福岡の書店回りの同行をお願いしていた。このあと佐世保へ移動するのに、あまり時間がなく、慣れない土地で書店探しをしていたら時間がなくなる可能性がある。スムーズに流れるようエスコートしてもらうつもりだった。セミナー前の忙しい時期にもかかわらず快く同意してくれた。一緒に営業回りなど、エル以来のことで、なんとなく懐かしい。
福岡では博多駅前の紀伊国屋書店、ここは店長と売り場担当者がそろって面談してくれ、問題なくOK。続いて天神のジュンク堂へ移動する。天神は、一番の繁華街であり、「ぜひ、おさえておこう」という中村さんの提案で行くことになる。今までは「意識の流れ」シリーズは置いてもらってなかったが、こちらの意向を説明すると、快くOKしてくれた。
博多の目的の2件が終了した時点で11:15分。天神11:30分初、佐世保行きバスに急げば間に合うだろう。
ところが、中村さんが佐世保も一緒に言ってくれるという。願ってもないことだが、なんとも申し訳ないと思っていると、いつもの調子で「いいよ、行こう」と気安く声をかけてくれる。その気安い雰囲気に甘え、お願いしてしまう。かくして中村さんの車に同乗し、佐世保に向かう。高速道路の周りに広がる独特の山並みと開けた景色に圧倒され、ここが「国生みの地」だといわれる感じが理屈でなく納得できた気がする。もちろん、実際がどうだったかという問題ではないが……。
佐世保の海岸道路から市街地へ入る。目的の博文堂書店はすぐ見つかった。店内に入ると本を整理中の店員の方が目に入り、来意を告げるとすぐに店長に取り次いでくれた。店長と話すと、すでに読者の方から特約店になってほしい旨の打診があり、来るのを待ってくれていたという。そんなわけでとんとん拍子でOK。佐世保の読者の方、ありがとうございました。
ついで長崎……はたまた中村さんが、「ここまで来たら一緒だから、今日は一日つきあうよ」と、あの淡々とした話しぶりで申し出てくれる。こちらも甘えついでとばかり、長崎まで一緒に言ってもらうこととなった。

伊都国の夕陽長崎は「意識の流れ」シリーズにとっては処女地。最近、長崎に新しい読者ができ、メールで「ぜひ長崎の紀伊国屋に置いてほしい」という依頼があった。急な長崎訪問のため、読者の方には連絡できなかったが、中村さんと共に初めての地へ上陸した。
あいにく、仕入れの責任者の方が不在だったが、応接してくれた売り場担当者の対応もよく手応えは十分、即決ではないが、OKになるだろうと思われる。
かくして今日の目的はすべて終了、電車とバスで移動していたら、まだ今頃は長崎を目指すバスの中に居たころ。走行距離では、福岡から岡山まで走るのと同じ距離だという。
今日は福岡に戻り、明日はJRで鹿児島、宮崎を目指す。福岡へ送ってもらう途中、中村さんの自宅へ立ち寄ることになった。なんと、そこは「魏志倭人伝」に出てくる「イト国」だという。古墳が多く、古墳に囲まれて暮らしているようなものだという。なんという偶然、僕の住む奈良の広陵町も「日本一古墳の多い町」という触れ込みにあるとおり、古墳に囲まれての生活。「福岡」と「奈良」と離れてはいるが、奇妙な偶然に中村さんの奥さんも交え盛り上がった。
「イト国に来たんだ! 伊都国へ来た!」そんな奇妙な高揚感に包まれ、午後8時、宿泊先のホテルへ到着した。 (写真は、伊都国の夕陽)
| 出張紀行 | 15:06 | comments(0) | trackbacks(0) |
江田島「利根資料館」

利根資料館

3月12日(木)、広島
早朝6時、ホテル前の銀山町(かなやまちょう)の停留所から広島港に向かう路面電車に乗る。去年亡くなった親父のことを思い出し、少し寄り道してみようと思い立った。向かうのは、江田島……といって海軍兵学校に寄り道するのではない。戦争末期、親父が信号兵として乗艦していた「重巡洋艦利根」が呉の軍港沖に繋留されていた。「戦艦大和」と共に沖縄へ出撃するはずが、燃料不足から「利根」の燃料を「大和」に移し替えたため、「利根」は身動きならないまま、カメレオンのように樹木で偽装し、広島沖にただ止まっているという状態だった。親父は広島の原爆も艦上から目撃したという。その後、利根は米軍機の空襲を受け、呉沖に沈んでいった。親父は血と重油の中を泳ぎ奇跡的に一命を取り留めたというが、子供の頃には、この話をいやというほど聞かされたものだ。暗号教習を受けるため、旗艦である大和にも何度も乗艦したという。親父の青春の思い出は、新潟の山間の地を捨て、勘当されながらも外用航路の船乗りになり、その後、海軍に入って終戦を迎えた、この体験を宝物のように自分の中で抱えていたのだろう。僕が生まれ、やっと手にした一等航海士の免許も捨てることになってからは、この思いはひとしおだったと思う。

引き上げられた遺品これから向かおうという江田島の中町港には「軍艦利根資料館」があるという。生前、行きたがっていたが「病気が治ったら連れて行くから」と言ったきり、ついに連れて行ってやることはなかった。感傷的だとはおもいながらも、せっかく近くに来ているのだからと、広島港から江田島に向かう高速艇に飛び乗ったという次第。
目指す資料館は、中町港から歩いて10分余り、能美海上ロッジの敷地内にあった。小学校の倉庫のような小屋に「軍艦利根資料館」という扁額がかかっている。入り口には「見学を希望される方は、ロッジ受付へ申し出て下さい」とある。早速、受付に見学希望の旨を伝えると、一本の鍵を渡され、「勝手に見て、見終わったら鍵を返してください」とのこと……。
ありがたい申し出に、資料館の引き戸を開くと、正面に「利根」の大きな模型が据えられ、それを取り囲むように、引き上げられた利根の様々な遺品がガラスケースに並べられていた。
こわくもないし、かといって何の感慨も湧いてこない。むしろ、昨夜、この資料館に行こうと思いたった時、思いもかけず、親父に対し冷たかった自分の姿を思い出さされ、ホテルで訳もなく泣いた。でも、今は親父との約束を果たし清々しい……そんな思いもない。何の感慨もないまま、残された遺品の一つ一つにカメラを向けていた。
早朝6時から、3時間半あまりの寄り道だった。

その後、広島から山口へ。途中、営業に先立って、この地区の読者の方へ、営業対象である「ブックランド都野下松店」の現状だけ聞いておこうと電話した。この方から情報を聞き、いざ書店へ。勢い込んでいったものの店長不在。代わりの方に説明しほぼOKの雰囲気、ただ「最終決定は店長でないと……」ということで、後日、電話することになった。書店の棚には、読者の方の言われたように「意識の流れ」関連の本が、何点か並べられていた。
店を出て、どちらへ向かえば駅かとキョロキョロしていると。「桐生さーん」と呼ぶ声。こんなところで呼ばれる訳が、ビックリしていると、電話で書店の情報を聞いた読者の方だった。居ても立ってもおられず、「いっそ行ってしまえ」と、車で飛んできてくれたのだという。その後、喫茶店で「本」のことや「セミナー」のことを話す時間がもて、自分の周りにセミナーの匂いが漂いだした。
山陰地区は、地区から地区への移動が大変で、一日1件という感じ。そんな中、セミナーの仲間に会えるのは、砂漠で水を得た、大げさでなくそんな喜びがある。    

| 出張紀行 | 15:38 | comments(0) | trackbacks(0) |
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